×
日本史
世界史
連載
ニュース
エンタメ
誌面連動企画
歴史人Kids
動画

現代につながる日本の骨格を創った男・江藤新平 明治維新を全力で駆け抜け、非業の最期を遂げた波乱の人生

■佐賀戦争とは?―信念を貫いた江藤新平

 

 廃藩置県後の佐賀県は、たびたび県庁が移転させられ、権令をはじめ県首脳も頻繁に交替したことから県政全般にわたる混乱と停滞が続き、また江藤を筆頭に優秀な人材を政府に排出し、地元に残った旧佐賀藩士族の影響も強く、政府から「難治県(なんちけん)」の一つと認識されていた。

 明治6年(1873)、岩村通俊が権令に就任し行政の集権化を進めたが、隣県で未曾有の干ばつの影響による大規模な農民一揆が勃発したことから、農民対策に重点を置いた県政を実施せざるを得ず、結果として士族対策の遅延をもたらした。

 このような中、政府の欧化政策に反発する保守系の士族が「憂国党(ゆうこくとう)」を結成。一方政府の欧化政策には一定の順応をしながらも、征韓論政変による江藤の下野に憤激した若手士族は「征韓党」を結成し、政府に「征韓論」を訴える運動を決定した。政府は、通俊の弟で強硬派の岩村高俊を新たな権令に任命し、事態の沈静化を図った。

 21日、憂国党が家禄支給を求め小野組出張所に金談を迫ったことが政府に過剰に伝わり、佐賀県士族の鎮圧の時期をうかがっていた政府は24日に熊本鎮台に出動を命じ、15日、岩村が鎮台兵とともに佐賀県庁(佐賀城)に入城。江藤が鎮台兵帯同での赴任の意図を確認するための使者を送るも岩村は返答を拒絶。16日未明に斥候同士の小競り合いが起こり、16日、佐賀軍が佐賀城を攻撃し、岩村は18日に脱出するが大打撃を受けた。19日、大久保利通率いる政府軍が到着し、22日から佐賀軍と激戦となるも兵力差から佐賀軍は撤退。江藤は援軍を求め鹿児島へ向かったが、西郷隆盛に拒否される。28日には佐賀軍側が停戦を求めるも政府軍から拒否され、31日に戦闘は終結した。

 江藤は高知立志社に支援を求めて豊後水道を渡ったが、329日に高知県甲ノ浦で捕縛される。そして47日に佐賀に送還され、13日に島義勇らとともに処刑された。

 戦争後の江藤に対する迅速かつ厳しい処罰は、政府が彼の影響力を脅威と見ていた証でもあった。

佐賀城「鯱の門」の門扉には、佐賀戦争の銃弾跡が残る。

<CHECK POINT>

江藤新平の苦悩と決断─望まぬ戦いへの道

 参議を辞職した江藤らは東京御用滞在を命じられた。ただ、郷里の青年たちの中央集権化に反発する傾向を憂慮した江藤は、明治7113日に政府の許可を待たず横浜を出航。17日、板垣退助らが提出した民選議院設立建白書に江藤の名も含まれていた。自由民権運動による政府との対抗を説くつもりだったが、25日に佐賀に入ると士族の沸騰は想像以上で、21日に憂国党が家禄支給遅延をめぐり小野組に談判したのが過剰なかたちで東京に伝わり、政府が鎮圧命令を下す。ことここに及んでは佐賀の同胞を見捨てるわけにはいかず、江藤は「決戦の議」を起草した。

 

 

江藤新平復権プロジェクトプロモーションムービーが完成しました。

 

佐賀県では、令和6年(2024)の江藤新平没後150年に合わせて、佐賀戦争とともに消されてしまった江藤の真の功績に光を当てて「復権」を図る「江藤新平復権プロジェクト」を展開しています。多くの方に江藤新平の功績を知っていただくきっかけに、日本を代表する俳優 竹中直人さんを起用したプロモーションムービーを制作しました。ぜひご覧ください。

https://youtu.be/m13CGuMq-bE?si=yv4OBul9OcD0Lf28

 

 

KEYWORDS:

過去記事

歴史人編集部れきしじんへんしゅうぶ

最新号案内

『歴史人』2025年10月号

新・古代史!卑弥呼と邪馬台国スペシャル

邪馬台国の場所は畿内か北部九州か? 論争が続く邪馬台国や卑弥呼の謎は、日本史最大のミステリーとされている。今号では、古代史専門の歴史学者たちに支持する説を伺い、最新の知見を伝えていく。